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大久保貞義 プロフィール

大久保 貞義:獨協大学名誉教授
 生年月日 昭和10年6月20日
 住所 〒315-0001 茨城県石岡市石岡13446-10
              有料老人ホーム ロイヤルハウス石岡
 電話 0299-22-3317
 FAX 0299-22-3226

【学歴】
○昭和34年 東京大学教育学部卒業
○昭和36年 東京大学新聞研究所卒業
○昭和36年 スタンフォード大学大学院留学(修士課程)
○昭和36年 プリンストン大学大学院留学(行動科学専攻)
○昭和39年 アメリカ議会奨学生として留学(議員政策担当秘書)
          (Am, congressional, Fellow)

【職歴】
○昭和34年 毎日新聞社編集局入社
○昭和42年 東海大学広報学科助教授
○昭和43年 東京大学教育学部非常勤講師
○昭和43年 労働省単調労働専門家会議会
○昭和45年 埼玉県都市計画委員
○昭和45年 フルブライト交換教授
         (University of California, Los Angeles)
○昭和47年 獨協大学助教授
○昭和47年 文部省定時制高校改正専門家会議委員
○昭和47年 自治医科大学非常勤講師
○昭和48年 北里大学非常勤講師
○昭和51年 獨協大学教授
○平成18年 獨協大学名誉教授(現在に至る)

大久保 貞義
【著書】
○技術社会の人間と労働(日本労働協会)
○労働の未来予想(ぎょうせい)
○日本人の投票行動(至誠堂)
○学校五日制(ぎょうせい)
○労働システムと勤労観(ぎょうせい)
○10年後の生活予想(共著)(大蔵省印刷局)
○シェアアップ戦略(共著)(プレジデント社)
○有料老人ホームの活用法(共著)(ぎょうせい)
○老いゆくこころとからだ(近代文芸社)
○有料老人ホームのすすめ(春風社)

ごあいさつ

 平成18年3月31日で、獨協大学を定年退職する日がやってきました。

 獨協大学で教えることになってから、35年もの歳月が過ぎていきました。70歳の私にとって、その半分の年月を獨協大学で過ごしたことになります。

 私は獨協大学大久保ゼミナールを志願してくる学生諸君に、学問ばかりでなく、私自身の人間に対する考え方を話してきました。そして気が付けばゼミ1期生から34期生まで約500人の大久保ゼミ卒業生が生まれていました。

 これまでの私の人生で、残した最大の財産はこの500人の大久保ゼミ生であるといってよいと思います。今回はその大久保ゼミ生が全員一致して、「退任記念祝賀会」を開いてくれるということになりました。これは教育者として無上の喜びを感じているところです。

 しかし、35年もの長い間、無事に獨協大学で教壇に立てたのは、私を支えてくれた獨協大学の同僚である教職員の方々、さらには、私が11歳の時満州から引き揚げてきて以来お付き合いしてきた先輩後輩の方々の支援があったからこそ続けられたものであります。私と交友のあった先輩後輩の方々に深く感謝しております。

 私は大学を卒業して毎日新聞社に入社いたしました。しかし、私は、30歳の時に、毎日新聞社を退社し、東海大学の助教授に転職しました。40年以上も前のことです。

 毎日新聞社で、私が政治部に入る時、引っ張ってくださったのは当時の政治部長である小林幸三郎さんでした。小林先輩は、私の毎日新聞社での恩人です。

 私はまず、小林先輩のお宅へ伺い、定年退職記念祝賀会の発起人をお願い申し上げました。現在94歳になられている小林先輩は、快くお引き受けくださいました。

 「君ももう70歳になったか。祝賀会の発起人になるのは喜んで引き受けるよ。しかし、普通就任祝賀会には人が集まるが、引退祝賀会には集まらないものだが、就任パーティではなく退任パーティをしようと言うのだから、君はたいしたものだ。」とほめて下さいました。

 事実この原稿を書いている時には、“引退”のパーティに来てくださるか心配していました。しかし、そのあと毎日新聞社の先輩、約十数人に発起人になってくださるようお願いしたところ、40年もの歳月が過ぎているにも関わらず、すべての方が発起人を“喜んで”お引き受けくださいました。

 毎日新聞記者時代、私は普通ならお会いすることのできない日本の指導者に直接お会いすることができた事が、私の人生経験を豊かなものにしてくれました。そして、この経験が多少なりとも私の人間性に磨きをかけてくださったものと深く感謝しております。

 私は新聞記者として大学を卒業して間もない20代前半の春秋に富んだ時期に、普通ではお会いすることのできない池田総理大臣やその秘書官たち、そして佐藤栄作総理大臣やそのときの閣僚などと、直接お目にかかれたことが私の人間形成に大きな影響を与えてくれましたこのチャンスを下さったのが、恩人である小林幸三郎先輩だったのです。

 私は学生時代に、東大旅行研究会に属しておりました。そこで、旅行研究会の会長として活躍している時、顧問である藤島亥治郎先生という高名な建築士の先生がおられました。旅研の会長であった私は藤島先生にかわいがられ、当時の国鉄総裁やJTBの社長などに旅の企画でお会いすることができました。このことも、単なる学生である私に、すばらしいチャンスを与えてくれました。そして、このチャンスこそ、組織の長はどのような考え方をするものなのか、組織のあり方に対し深い洞察力を得られた結果となりました。

 私は今、旅行研究会のOB組織である旅友会会長をさせていただいておりますが、この旅友会の仲間はすばらしく優秀で、東大卒業後、司法界、労働界、運輸業界、金融界、教育界、商社などで活躍し、それぞれの組織のNo1、No2としてすばらしい活躍をされています。

私は獨協大学の教壇に立ちながら、旅友会の仲間を獨協大学に招き私の授業で講演をお願いしました。また、旅友会ばかりでなく、毎日新聞記者時代の先輩や後輩、さらには記者時代に知遇を得た政治家の方々にも獨協大学の私の授業にきていただきました。そして、アメリカ留学時代にお知り合いになり、交遊を続けた方々にも私の授業に来ていただき、講演をしていただきました。

 私の獨協大学の授業である「行動科学論」や「マーケティング論」は、私一人の能力ではなく、多くの先輩後輩によって支えられた講義になったので、獨協大学でもっとも多くの受講生が集まるようになりました。この成功は、私の力ではなく、影になり日向になり私の授業の中で、すばらしい講義をしてくださり、私を助けてくれた先輩後輩の方々の援助のたまものです。こういった多くの方々のご援助によって、私は35年間、獨協大学教授として無事勤めることができたのです。ここに深く感謝申し上げます。

 獨協大学は、きわめて自由な校風の大学で、私があらゆる分野で活動するにあたり、同僚から妨害される事や足を引っ張られるような品位のない行為は全くありませんでした。

 大学の同僚は学問研究に情熱を傾け、研究の自由、学問の自由、言論の自由を謳歌する人格高潔な方々が集まっております。ですから、大学では右翼の思想家が活動したり、名もなき左翼の活動家が学内活動したりしていたので、私は“人間の思想と行動”を学ばせていただきました。私も新聞記者時代に学んだ派閥の力学を応用させていただきました。

 私にとっては、あらゆる可能性をあらゆる方面に追求できるという獨協大学の自由な空間が何よりも尊いものでした。ですから、右から左まであらゆる思想をもった政界の指導者を自由に私の授業の時間に招待できたことは、これから旅立つ獨協大学の学生諸君に大きな刺激を与えたのではないかと自負しているところです。

 このすばらしい大学の同僚の方々が私の「退任記念祝賀会」の発起人としてご支援くださいました。学内の発起人をまとめて下さったのは、経済学部の中村泰賂教授と、大河原久事務局長でした。お2人ともお忙しい中、これから大学を去ろうという人間に対し、温かいご支援とご指導を下さった事に深く感謝しております。

 最後になりましたが、「大久保ゼミ卒業生・現役生」について述べなければなりません。私にとって獨協大学の約500人のゼミ卒業生は、獨協大学で私がつくった財産の中で、不滅で最も価値のある財産です。私は、「社会こそ諸君の先生である」と社会から学ぶ方法を教えてきました。そして、“学問を学ぶ”方法を学ぶことが重要であると学生たちに絶えず言ってきました。“学問を学ぶ方法”を習得することにより、自分の力で知識を集積し、自らの力で成長し続けることができるような人間に、大久保ゼミの卒業生はなっております。500人のゼミ生のパワーは、今なお自らダイナミックに拡大しつづけており、それが、それぞれが個性のある世界を形成していっています。
大久保ゼミ生のパワーは、時間の経過と共にますます大きくなっています。

 今回の「退任記念祝賀会」は大久保ゼミの卒業生と現役生が企画し、実行して下さいました。

 個性の強い大久保ゼミの卒業生をまとめているのが、ゼミの同窓会長である坂井誠太郎君です。坂井君はゼミ生500人のまとめ役として、仕事が忙しい中をゼミに奉仕してくれています。

 また、大久保ゼミ30周年記念パーティの時以来、ずっとゼミの発展に貢献してくれている橘秀樹君。さらにホテルオークラの会場確保に貢献してくれた雑賀陽君など、大久保のゼミ生が一丸となって退任記念祝賀会を盛り立てようとしているゼミ生の努力が、私の心に波打つ様に響き伝わってきています。私の人生の引退の時に、このように一致結束して私を支援してくれる大久保ゼミ卒業生こそ、私の宝であるといっても言いすぎではないと思っております。ゼミ生の皆さん、本当にありがとう。

 そして私をこれまで支援してくださった交友関係の皆さん、大学の同僚の方々に深く感謝し、謝辞としたいと存じます。

 なお、この小冊子をまとめてくださったのは、獨協大学教務部長の高松和幸教授です。この縁の下のご助力に深く感謝申し上げます。

平成18年4月10日
大久保貞義

獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
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ご挨拶

 私が獨協大学を定年退職するにあたり、大久保ゼミの方々が私のために「退任祝賀会」を開いてくれる事になり、平成18年5月19日(金)にホテルオークラで祝賀会が開かれました。
  約300人が集まる祝賀会を開催するには、ゼミのOBの方々や現役ゼミ生の大変な苦労がありました。
  同窓会会長の坂井誠太郎君や橘秀樹君、雑賀陽君などは後輩の現役ゼミ生と共にパーティーの企画や実行について何回も打ち合わせを行なってくれました。お陰で「退任の祝賀会」であるにも関わらず、大勢の方々がご来賓下さり成功のうちにパーティーが開かれました。

 当日、私はパーティーの入口に主催者である大久保ゼミ同窓会会長の坂井君と2人で立って、一人一人来賓の方々に挨拶をし、握手を交わしました。

一瞬の間に回想した70年間の人生

 一人一人と握手をした瞬間から、私は自分の70年の人生が頭の中でパノラマのように急回転してきました。
  小学校、中学校、高等学校、そして大学の学友達と先輩諸氏の方々と共に過ごした遠い思い出が一人一人と握手すると同時に、昔の映像が頭いっぱいに広がってきました。懐かしい思い出が走馬灯のようにくるくる回っていました。
  また社会に出てから毎日新聞社、東海大学、獨協大学で共に働き、ご指導頂いた先輩の方々との握手の時は、昔の職場の中で先輩から指導を受けながら働いた時の映像が次々と現れてきました。
  わずか30分間にすぎなかった約300人の方々と握手するというスキンシップの中で、私の人生の70年間が一気にまきもどされて過ぎ去っていきました。
  70年間の人生が一瞬の間に回想する事が出来たという経験は、私にとって生まれて初めての経験でした。
  私にとっては、“これが自分の人生だったのだ”と思い知らされる至福の30分間でありました。
  私の70才定年の祝賀会でありましたが、私よりはるかに年輪を重ねた先輩の方々、また同じ年頃の方々、そして多くの後輩達がお忙しい中原稿をお寄せ下さいました。

 特に毎日新聞社の先輩の方々は、私が政治部に入った時は一番下だったので、私より一回りも年齢を重ねた先輩の方々でした。しかも、今なお80才90才にして痛烈に小泉政権を批判し日本の政治を語り、日本の将来を憂い、日本国家の行末を堂々と論じる方々ばかりでした。

私の人生を見通していた先輩の方々

 そのような方々が私の行動を見事に分析して、今回の回想記に寄稿して下さり、私に鋭い助言を与えてくださいました。
  私はこのような立派な先輩に恵まれてこそ、自分の人生をこのように開拓出来たのだと感じざるを得ませんでした。

 毎日新聞の先輩で、駐アイルランド大使、白鴎大学名誉教授の波多野裕造先生は、「大学に何が必要かというと、学生の知的好奇心、想像力などを刺激して彼らが自発的に知的冒険へ向かうよう仕向ける事である。大久保教授はまさに見事にこれに成功したと思われる。」「本来学問は、特定の先生の学識はもちろん、人格、識見を慕う学生達が寄り集まってくる所に成り立つものである。松下村塾の吉田松陰、札幌農学校のクラーク博士、みな然りであろう。」と私が目標にして達成出来なかった点を指導して頂きました。

 また毎日新聞特別顧問の諏訪正人先輩は、一方ではプラトンの“飛び火によって点ぜざるともし火のように、突発的に学ぶ者の魂のうちに生じ、生じてからは、生じたものそれ自体が、自らを養い育てていく”と古代ギリシャ、プラトンの学園アカデメイアを引用しながら、他方では私の星の光の文を引用して“一瞬の星のひらめきが平凡な人間の長い人生の中で生涯輝き続ける事がある”と述べて、ジャーナリズムとアカデミズムの幸運な握手であると鋭く分析された文章をお寄せ下さいました。
  たしかに、私の学問の中にはジャーナリズムの大きな影響があり、その手法を活用しながら大学で人間教育を行ったのである。
  これを鋭く分析して私に示して下さった諏訪先輩の慧眼には敬服するばかりである。
  また94才になられる小林幸三郎先輩には、“人間研究を決意、実行したお陰で大学時代人間関係で困った事は一度もなかったという。これほど多方面の人に退任パーティーに来て頂いたという事は、到底普通の人では出来ない事だ。なぜ政治部一年生が人間研究を第一に考えたのか?その動機こそが、今日の彼を生んだのではないか。”と私が人間研究を中心にジャーナリズムでも学界でも活動した事を見通しておられました。

 こうして私は多くの先輩に見抜かれながら自分の道を歩んできたといって良いでしょう。

 毎日新聞の先輩方は私が毎日新聞を離れてから、私の成長の軌跡を鋭く評価して下さり、今回の同窓会通信に原稿をお寄せ下さいました。

 また今回の「同窓会通信」には、私と個人的に交際して下さった方々も回想記をお寄せ下さいました。私にとっては、この原稿を拝見して、実に心地良く人生を回想出来ました事にまた深く感謝申し上げねばならないと感じております。この「同窓会通信」は70年の人生を回想するチャンスを与えて頂きました。

 そしてやっと今になって自分の人生70年が見通せた境地に達する事が出来たように思われました。少し遅すぎた人生の悟りではありましたが、これからの人生の再出発には必要な第二の人生のエネルギーを皆様から頂いたような気がしております。

教育で教えない定年後の生き方の技術

 何しろ、第二の人生の生き方について日本の学校教育では何も教えてくれなかったような気がしております。
  日本の学校教育は60才の定年までいかに働くか、その技術や思想を一生懸命教えております。社会でいかに働くかについては学校教育が大変役立っている事は、多くの人が働く事で生きがいを感じている姿を見ても判る事であります。

 しかし、60才で定年になってそれ以降どう過ごすかという点で、日本の学校教育は何も教えておりません。
  日本人は教えてもらってない事を実行する事は大変不得意です。しかも社会秩序や産業構造が大きく変わり、価値観も変わった戦後の日本社会の激変に、多くの日本人が戸惑いながら老後を生き続けております。
  戦前・戦後の教育の違いから、大きなジェネレーションギャップが生じ、男女の考え方の相違、世代間の価値観のギャップが次第に今大きくなって来ているようです。

 このような複雑で高度化した社会で、70才以降の人生をいかに生きるかは、大きなエネルギーを必要とします。70才以降の生き方を新しく創造するという事は、それ自体老人に大変な問題解決を必要とするような気がします。
  そのエネルギーを多くの方々が「同窓会通信」という文集に寄せて下さいました。こんなに素晴らしく、透明で清く、温かいエネルギーが集まった文集は、やがて静かに新しい分野で花開いていくチャンスを私に与えてくれるような気がしてなりません。

 私が教えた大久保ゼミの卒業生は、それぞれ自ら選択した人生を歩んでおります。
  大久保ゼミでは“自ら学ぶ方法”を教えております。大学教育によって成長する姿は大学にあるのではなく、社会に出てから社会の仕組みを学び取り、その技術を身に付けるよう指導しました。
  そのゼミ生が自ら社会の中を進んでいく姿が、やがて大きく各自が自分の人生をそれぞれ形成してい事でしょう。
  大久保ゼミの目標は、このように自助努力と自らの決定によって人生を送るように奨励してきました。 
  “大久保ゼミで教わった事は、すごく社会で役立っている”と多くのゼミ生が述べている背景には、このように“自分の人生を社会から学び取って生きていく”という姿勢の中でそれぞれのゼミ生が成長していっている姿そのものです。

 私の教えた580人のゼミ生達は、今社会に出て社会に学び、各方面でそれぞれの役割を果たし活躍しております。
  そこには若さがあり、エネルギーがあります。そして自分自身で世界を開いていく能力のある大久保ゼミ生は、たとえ働く会社が倒産しても、ゼミ生は人間として潰れる事は全くありません。ゼミ生達は転職しながら人生を変え、ダイナミックに生きております。
  これは「職業としての教師」というよりも、「人間としての教師」として学生に接して来た結果として、学生達に芽生えてきた自己実現の姿だと思っております。
  このようにゼミを教育してきた私でありますが、いざ私自身が70才以降の自分の事となると、ゼミで教えてきたようにうまくいくかという心配が先に立っております。

 「人生は20代で失敗しても、30代で取り戻せる。」「30代の失敗は人生の大きな教訓となり、成功への足がかりとなる。」などと世間ではいっております。
  ところで70代の失敗は80代で取り戻せるのでしょうか?
  これまで70才からの生き方について学校教育では誰も何も教えてくれなかったと思います。

高齢化社会の生き方を考えるスタートに

 今後の高齢化社会では、70才からの生き方を学校教育の中で教えなければ、多くのお年寄りが老後をいかに過ごすか悩む事になるのではないでしょうか。日本人は平均年齢から見ても、定年後20年間は生き続けるのです。70才から新しい人生を10年〜20年と生きていくからには、この長い年月にどう立ち向かうか自ら予測し、計画し、実行し、成功をおさめなければなりません。

 多くの日本人の老人が、自分の方向を見失い、自分の将来を見通せず、方向感覚を喪失しながら、考え方もわからず不安を持ちながら自分の人生の行き先を求めて悩む姿を見ていると、日本の学校教育は何か70代、80代、90代の生き方についての教育が不足している気がしてならないのです。

 70才からどう生きるか?このような事を学校教育で教える事の出来る“教師”は今の所見当たりません。何しろ70才以降は静かに引退してしまうのが日本の伝統的生き方だからです。

 しかし、毎日新聞社の先輩の方々は、素晴らしい定年後の生き方を実践され、なかにはテレビで時々登場する方もおられます。テレビばかりでなく、各方面に実際に活躍されている方が多勢おり、その多種多様な活躍は私にとって大きな刺激となっております。

 この姿は、多くの日本の老人の参考になるのではないでしょうか。
  私もこの先輩の方々の姿を拝見し、何とか第二の人生の生き方について学生に出来るだけの理論や実践を教えていくエネルギーを持ち続けたいと願っておりました。
  私は「職業としての教師」から「人間としての教師」そして、「老人としての教師」として学生に臨みたいという願いを持ち始めてきました。 私が定年という70才に達した時も「老人としての教師」として学生諸君に何を教えれば良いか暗中模索している所です。
 また、老人として老人に教えるのは気が引けますが、人間誰でも年を取り、生きがいも変わり、ライフスタイルも変わり、いかに人生を終えさせるか、自ら設計する必要がありますから、ある程度なら「老人としての教師」が務まるかなと思っています。

 「老人としての教師」を考え始めたスタートは、この「同窓会通信」であるといって良いでしょう。
  というのは、私の第二の人生がこの「同窓会通信」からエネルギーを与えられ出発し、人生の生きがいを全う出来るようにプランを作り、それを実行し、社会に役立つ生きがいを持ちたいとスタートし始めた所だからです。
  人生は老いても、工夫をし、戦略をねって行動したいと思っております。

2006年7月
大久保貞義

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大久保貞義論『試論』

 比較的安穏無事な日常生活を送っている人間が多い大学教員のなかでは、大久保先生はかなり波乱万丈の人生を送ってきた人物である。もっとも、こういう見方はあくまでも筆者の個人的見解によるもので、「いやあんな人は世間にはごまんといるよ」といわれるとそうかなと思ってしまうのだが、しかし筆者が知る限りの大久保先生の人生は、その交友関係を見ても、また大学における研究・教育活動を見ても、尋常ではない激しく波乱に満ちたものであるように思われるのである。
 まず、先生の出身高校は名門水戸高校である。水戸高時代の同窓生の元獨協学園理事長で精神科医の大森健一氏によると、「大久保くんは水戸高時代から現在と同じような風貌を漂わせていた」由で、「成績はわたし(大森氏)がトップだったが、クラスの人望は大久保くんに集まっていた」という話を大森氏自身から聞いたことがある。水戸高校から東京大学に合格したのだから、人望だけでなく成績もそこそこ優秀であったことは間違いない。
  さて、大久保先生は、教育学部卒業後はふたたび東大新聞研究所に入り、ここも無事に卒業した。教育者の道を選ばずにあえて新聞記者の道を目指したことは、大久保先生にとっては波乱万丈の人生の第一歩といえる。目指したとおり、就職先は毎日新聞東京本社の編集局政治部という、これまた文芸部でもなく経済部でもない、いくぶん危険でかつ刺激に富んだ職場であった。この新聞記者時代の豊かで変化に富む貴重な経験と人脈が、彼のその後の人生の重要な局面を形作っている。いわば新聞社政治部と永田町的感覚がドッキングした大久保人脈の形成につながったのである。大久保先生は、のちに新聞社とはかなり異なる価値観や雰囲気が支配すると思われる大学という新しい職場に移っても、この新聞記者時代に培った人間臭い人脈や雰囲気、それに感性も失わなかった。大久保先生は、その間にアメリカのスタンフォード大学やプリンストン大学の大学院に学び、またアメリカ議会奨学生としての留学経験もある。その後、東海大学に教職を得て、ふたたびフルブライト交換学生としてカリフォルニア大学に派遣された。前に述べた幅広い多様な人脈とこの若き日の数度にわたる留学から得たアメリカ的価値観と発想法が、大久保先生の人生を支える車の両輪を形成することになる。
  大久保先生は、もちろん誇り高き地域文化の中心地である水戸から東大に進んだエリートの自信に裏付けされたワンマン的な性格と雰囲気を漂わせているが、これに加えて前述のように留学先のアメリカで学んだアメリカ的価値観と発想法をしっかり身に着けたのである。想像するに、アメリカ的な価値観と発想法は、大久保先生の生来の性格と行動様式にぴったりマッチしたのではなかろうか。もちろん、アメリカ的といっても、比較的リベラルで健全な良き時代のアメリカのそれである。アメリカ留学時代の生活を懐かしむことばが、彼の口から期せずして漏れることがある。毎年5月と10月頃、大久保ゼミの学生を中心に大学キャンパスで開くバーベキューパーティは、若き日の大久保先生がアメリカ留学時代に自らがそこに招かれ、その自由で楽しい雰囲気に感動して、それを獨協大学の緑溢れるキャンパスで再現したものであろう。
  逆に、大久保先生がアメリカで学んだ自由で闊達な人間関係を重視する姿勢は、彼の人脈形成のなかにも見られるのである。大久保人脈の大きさと多様性は、長年付き合ってきた友人たちにさえつねに新しい驚きを与えてきた。大久保先生の講義科目である「行動科学論」や経済学部の「総合講座」に大久保先生の紹介で講演や講義を行った講師のリストを見ると、その人脈の広さと多様性の一端をうかがうことができる。それは自民党幹事長安倍晋三氏から始まって、元大蔵大臣の塩川正十郎氏、新党さきがけ代表で元大蔵大臣の武村正義氏、前衆議院議員で元郵政大臣の八代英太氏、民主党のホープ枝野幸男議員、衆議院予算委員会であの「ムネオハウス」の追求で一躍有名になった共産党の佐々木憲昭議員、元総連会長の鷲尾悦也氏、さらに石原慎太郎と前の知事選を争った女性評論家樋口恵子氏に至るまで、すべては大久保人脈の一部にすぎない。元文部大臣の自民党小杉隆衆議院議員は大久保先生の大学時代からの友人である。とにかく、打ち出の小槌のように先生の人脈の水源は枯れることなく、彼の招きに応じて現在の日本を動かしている重要人物がつぎからつぎへと現れて、講演や講義のためにほとんどの場合講演料も講師代もなく、忙しい時間を割いて駆けつけてくるのである。大久保先生には、もちろんそれなりのご苦労があるのであろうが、とにかくこれらのいわゆる政財界の大物が大学のキャンパスに忽然と現れるのは、実に驚くべきことであった。さらに、大久保先生はかつての新聞記者時代の同僚やその時代の同業者たちを非常に大切にしてきた。先に紹介した「総合講座」の講師として毎日新聞関係者をつぎつぎに講師として招いて、彼らの貴重な体験や知識の一端を学生たちに伝えるため機会を設けたのもその例である。最近では、毎日新聞社取締役朝比奈豊氏、同東京本社編集局次長山田孝男氏などの名前が浮かぶが、1996〜1999年の筆者の経済学部長時代にも、当時の毎日新聞経済部部長菊池哲郎氏、編集局次長の橋本達明氏、編集委員黒岩徹氏、同じく論説委員の長崎和夫氏など、毎日新聞社の幹部がつぎつぎに獨協大学の教壇に立つた。ちなみに、本学経済学部特任教授で、日テレ系列の「行列のできる法律相談所」で売り出し中のヤメ検弁護士住田裕子氏やマスコミで著名な経済アナリストの森永卓郎氏(現獨協大学教授)も大久保先生の紹介による人事である。
  こうした大久保先生の外部講師の紹介努力については、「昔からの知り合いを紹介するのだから簡単だ」、「知り合いを連れてきて得意になっているのだろう」などといった冷ややかな見方をする向きもあった。しかし、それは大間違いである。その「昔からの知り合い」をつくり、そして維持するための努力は、彼にとっても並大抵なことではあるまい。大久保先生がつねにこのような豊富でバラエティに富む人脈を育て維持することができるのは、並々ならぬ努力と細やかな気遣いを欠かさなかった結果でもある。もちろん、彼はそのような苦労や気遣いを人に漏らしたことはない。さらに、上述のような大久保先生の親しい友人知人はまさに氷山の一角であって、氷山の隠れた部分がむしろ大切なのである。その隠れた部分こそが、大久保先生が長年の友情と信頼関係の上に積み上げてきた人脈そのものであることを忘れてはならない。この貴重な人脈を築くためには、カネはとにかく、時間と手間はたつぶり掛かっているに違いない。大久保先生が若い学生たちに、研究・教育と平行して人間関係の大切さを教えてきたのは、まさにこの自らの体験に裏付けられたことなのである。
  ところで大久保先生自らも学問の世界から政治の世界に転身を図ろうとしたことがある。筆者の記憶の中でももう薄れかけていることだが、大久保先生は1973年に獨協大学に教授のポストを得てから10年ほどして、自らの出身地である水戸市の市長選挙に立候補したことがあった。東京在住の筆者には水戸の市長選挙のことなど情報がまったく得られなかったから、詳しいことは知らない。しかし、たぶん彼の日ごろの思想傾向から推察しても、少なくとも自民党推薦候補ではなかっただろう。筆者の知るところの大久保先生は、自民党では決して収まり切らないリベラルで驚くほど革新的な思想の持ち主であるからである。しかし、結果的には落選したらしい。「らしい」というのは伝聞であるが、とにかく大久保先生はいぜんとして獨協大学教授として勤務していたから、落選したに違いないと筆者は確信したのである。しかし、当時は全国的に学者出身市長や学者出身知事の全盛時代で、にもかかわらずなぜ大久保先生が落選したのかを筆者は考えた。
  ところで、大久保先生の声は日本人には珍しい美声である。声の良さとさらに声が大きいことは政治家のみならず、その他のいかなる職業人にとっては非常に大切な素質である。大久保先生の声は、太くてよく通る、落ち若いた、オペラ歌手のようなすばらしい音質の美声である。問題は、この美声にもかかわらず、なぜ先生は選挙に敗れたのであろうか。失礼を承知であえていうならば、先生は学者ではあるがいわゆる学者風でない風貌や立ち振る舞いのゆえに、かなり損をしたのではないか。それが、学者出身政治家ブームに乗れなかった原因ではあるまいか。先生の演説内容は知らないが、たぶんそれなりに学者の薀蓄を傾けたものであったに違いないと、日ごろの先生の言動などから推察している。想像するに、いかにも学者風の人物が物分りのいい演説をしたほうが世間受けはいいのであって、エネルギッシュで眼光炯炯たる人物が学者らしい真面目な話をすると、巷の人びとはノッてこないのではなかろうか。その結果が、水戸市長選における落選という残念な結果を招いたのではなかろうか。ただし、以上はまったくの筆者の勝手な想像の産物に過ぎないが・・。
さて、この市長選立候補一つを取り上げても、大久保先生がいかに波乱万丈な人生を乗り越えてきたかが理解できるのではなかろうか。大久保先生の優れた素質の一つは、じつは、人生の一時的な蹉跌に見舞われても、けっして落胆せず、いや落胆しているのかもしれないがけっしてそのような態度を他人に見せないところである。彼は、一見いつも磊落で豪放、ゆったりして慌てず、かつ決断は迅速、とくに若者や女性には優しく、慈愛に満ち、かつまた人情の機微に通じた細心の気遣いを見せる人である。さらに、礼儀をわきまえない無礼な輩や不正を働く人間に対しては断固としてこれを攻撃し諌める、という裏表のない、また人間の好みがはっきりした人であるように思われる。したがって、敵も多い。しかし、たぶんこうした見方は、先生の一面を捉えているにすぎないのではないか。やはり、先生も人並みに落胆し失望し、弱気に襲われたことも多々あるに違いない。先生について筆者が感心しまた敬意を表するところは、そのような弱気の感情をほとんど表に出さない点である。たぶん大久保先生は、その弱気を直ちに強気に転じて、他者への戦いの原動力に転換するという生来の性格を備えているようにも見える。じつはこの弱気を強気に転ずる性格こそが、大久保先生がこれまでの波乱万丈の人生を乗り越えてきたカギであり最大の武器であったというべきであろう。
  その姿勢がはっきりと現れたのは、大久保先生が約10年ほど前に突然に襲われた病の際のことである。治療のため、大久保先生は大塚の癌研に入院した。先生は最初からその病名を隠すことはなかつたから、みな安心して「大腸がん」という病名をおおっぴらに口にしていた。このこと自体も、先生のじつに驚くべき率直さと気丈さによるものであった。しかし、さらに驚くべきは、先生はこの厄介な病気の治療を、じつに前向きな態度で受け止めていたことであった。もちろん、先生自身は、「ひょっとしたら俺はもう終わりかな」と内心考えていたに違いない。しかし、先生は弱気な発言はまったく吐かなかった。じつに達観した堂々たる治療態度に終始して、なんら動ずるところがなかったのである。弱気を隠して達観ぶる人間は多い。普段よりも陽気に振舞う人間は、そのような態度で弱気や不安を隠していることがすぐにばれてしまう。しかし、大久保先生の場合はそうではなかつた。大手術を前にしても、大久保先生は、普段とほとんど変わらない態度で終始した。とにかく、筆者が見舞った手術直前のころの大久保先生は、大部屋のベッドの枕元に自分の専門分野の面白くもなさそうな本を積んでいた。筆者が同じ立場であったなら軽い週刊誌でも読むところを、先生は「エコノミスト」誌を読んでいたのである。これを見た筆者は、「このひとは病気のことがよくわかっていないのではないか」と、最初は思った。しかし、もちろんそんなことはなかった。大久保先生のこうした姿勢を偉いとかなんとかいうつもりは毛頭ないが、そこには、大久保先生の自らの病気や死、さらには人生そのものに対する心構えの爽やかさのようなものを感じとることができたのである。
  当時、退院したばかりの先生は、「おれの人生はいちどは終わったようなものだから、こんどは人生を愉しむよ」などとしおらしいこと繰り返していたが、その後次第にその言葉は開かれなくなって、いまでは入院前の大久保先生と同じく政治好きの元気なオジさん(いまやジィさん)に後戻りしてしまつたような気がする。これもまた宜なるかなというところである。つまり、大久保先生は本来そうでなければいけないのである。
  先生、定年退職後は、ほんとうに人生を愉しんでくださいね。

獨協大学教授
千代浦昌道

獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
獨協大学名誉教授 大久保貞義
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大久保貞義先生 人生の春秋

大久保先生の人生の冬は
満州から引き揚げてくる時の
一つのリュックサックを背負った少年の後姿だ
天は少年に祖国の土を踏む幸運を与えてくれた

大久保先生の20代の青春は
戦後デモクラシー日本とプラグマティズム・アメリカのキャンパスと共にあった
そこで貯金した知の財産は
どんなに時代が変化しようとも、ずっと殖えつづけた

大久保先生の教育者としての姿は
先生が授業に出て来れない時でも
いつも変わらぬゼミ生の人の和が健在で
その存在が学生のこころを輝かせている

大久保先生の人柄は
先生が多くを語らなくとも
人はぬくもりを感じられる事だ
あたたかい風が静かに香っている

獨協大学講師
齊藤善久

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不思議な実力者

 大久保先生がこのたび70歳で無事定年を迎えられたこと、おめでとうございます。今日は私の仕事の立場を離れて、少し本音でご挨拶をさせていただきます。
  先生のことは私が新聞社に在籍していた時から存じ上げており、そのご縁で獨協大学に移ってからも親しくお付き合いをさせていただきました。人間の生き方、組織のあり方、大学の方向などについて貴重なお話を伺い、改めてお礼申し上げます。先生の話は常にストレートで、それでいて明るくてユーモアがありました。人間観察や情勢判断は実に的確で、私のような世間音痴には驚くことがしばしばありました。
  本学の教職員ならば誰もが認めるように、先生は大学行政の真っ只中に常に身を置いていました。これだけ長い間、大学の意思決定に影響力を持った教員は他にいないと思います。しかし先生は、一度も学内で役職を務めたことがありませんでした。さらに、自ら権利や立場を求めたこともないという、何とも不思議な実力者でした。先生からよく聞いたのは、「大学で何かをやろうと思ったら、自分でポストや権利を求めてはいけない。欲がなければたいていのことはできる」というものでした。そういう意味では処世の達人であったと思います。
  その反面、先生には少年のように純真なところがありました。とくに約束を守ることや嘘をつかないことには強い“こだわり”があり、約束を破られたりすると、日ごろは温厚な先生が大声で怒りました。そして、いつまでもそのことを忘れませんでした。こうした巧みな処世と無垢な心が同居する先生は、私とって魅力的であるとともに、時に理解を超えた存在でもありました。
  ところで数年前、先生が書かれたエッセイを読んでいて、ふと考えされられました。それによると、先生は子供時代に中国大陸で終戦を迎え、文字通り全てを失って、リュックサック一つで命からがら帰国したというのです。現地で恐ろしい体験をしたことが記されていました。極限に立たされた人間の行動を、少年の眼で毎日見聞きして過ごしたのです。先生が人間の本音を鋭く見抜く力は、この時代に本能的に身に付けたものかもしれません。
  もう一つ、最近ですが先生を理解する上で参考になるエッセイを読みました。大学1年生の時にサルの生態に興味を持ち、日本を代表する霊長類学者・宮地伝三郎先生に名古屋まで会いに行ったという話です。一面識も無い大学者に手紙を書いて直接会いに行くなどということは、普通の学生にはできません。いかにも学生時代の先生らしいエピソードです。
  ここで気になったのは、先生がサル学に興味を持った理由が、サルの行動と人間の行動に「共通原理」を見出したためとあることです。サルの生態を研究すると、一見複雑に見える人間の行動を予測することができると述べています。ここからは私の勝手な推測ですが、先生は周囲の人々をサルの固体や集団として観測し、行動を予測していたのではないでしょうか。その結果が的確であったとするならば、これは私たちにとって名誉なことではありません。これからは、私たちがサルより上等な生き物であることを、行動を通じて証明しなければならないと思います。
  本学で文字通りグレイトな存在であった先生が退職されるのは寂しいことです。健康にくれぐれもご留意され、これからも大所高所から大学をお導きいただければと思います。以上、雑駁な話で恐縮ですが、これをもってお祝いの言葉とさせていただきます。(本稿は、平成18年5月19日にホテルオークラで開かれた大久保貞義先生の退任祝賀会挨拶に加筆したものです)

獨協大学学長
梶山皓

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大久保貞義先生の名誉教授ご就任にあたり

 大久保貞義先生は平成18年4月獨協大学名誉教授にご就任されました。永年の先生のご研究、大学教育、社会活動へのご貢献をふり返ってみたいと思います。
  大久保先生は、昭和34年に東京大学教育学部を卒業され、直ちに毎日新聞社に入社しジャーナリストとして社会人生活をスタートされました。同時に東京大学新聞研究所、スタンフォード大学大学院、プリンストン大学大学院、アメリカ議会奨学生として研究活動を続けられ、毎日新聞社から昭和42年には東海大学文学部広報学科助教授に転じられ本格的な学究生活に入られました。昭和45年にはフルブライト交換教授としてカリフォルニア大学で在外研究をされ、昭和47年に獨協大学経済学部助教授として着任され、 昭和51年教授に就任され、ご退職と同時に今般名誉教授にご就任されました。
  大久保先生のご研究は、マーケティング、行動科学などの分野で、計量的な手法を用いた予測科学であります。また選挙の投票行動の研究についてはその正確な予測実績は高く評価されております。また研究のご成果は先生の著書『労働の未来予測』『日本人の投票行動』『10年後の生活予測』『シェア・アップ戦略』等や数々の論文に結実され、学会だけでなく、社会の実践に役立つご研究と評価されます。このように先生の学問姿勢は学問のための学問ではなく、常に社会に役に立つ学問、人間行動と未来社会の予測に貫かれていると申せましょう。
  大学行政については、広報室員、入試制度検討委員会、図書館委員会、学生懸賞論文委員会の委員を歴任されました。また学外では労働省、文部省の政府委員等も勤められました。
  大久保先生の獨協大学での最大のご貢献は、学部教育の高度化と全学教授会の活性化にあることは論を待ちません。前者については、34年間にわたり人気ゼミとしてゼミ生の指導を熱心に続けられ、特にゼミ主催の諸行事の運営の素晴らしさは、先生のご指導の賜と招待を受けた多くの先生方の一致した意見であります。またゼミ卒業生の組織も確固としたものとなっており、卒業生は産業界ばかりでなく、政界で活躍するものも多くなっています。ご専門科目の講義「マーケティング論」「行動科学論」は毎年500名超の受講者を数える人気科目であり、先生の学問のみならず、社会での生き方論に感銘受けた学生は数しれません。さらに授業に招聘される著名政治家の講演は獨協大学の名物行事となりました。大久保ゼミがこれらの講演会を毎回サポートして立派にやり遂げていたことも印象的な出来事でした。
  後者の全学教授会活性化については、先生のご質問は常にユーモアと舌鋒の鋭さが調和したハーモニーとなって、毎回教授会の最後を引き締める名演説でありました。しかしそのご指摘や予測はことごとく頷首するものであり、獨協大学の経営に資するご発言であったことが想い起こされます。大学経営の透明性と学問の自由が一貫して先生の変わらぬご信条であったと推察いたします。先生の慧眼が獨協大学を風通しの良いオープンな大学にしたといっても過言ではないと思います。

経済学部教授
上坂卓郎

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身障児と母親が安心して暮らすには?

「生涯保障制度」で将来の不安を解消

身障児と母親の強い親子関係

  身障児を持つ年老いた母親の嘆きは深いものがあります。
  母親は障害を持って生まれた子供にあらゆる償いをします。しかし親にも次第に加齢が迫り、障害児を抱えて生活するだけの肉体的体力も精神的体力も衰退していく運命にあります。

  しかし障害児を持つ母親は、自分の人生の終わりが近づいてくるほど逆に生きる意志がますます強くなっていきます。自分の死によって我が子に降りかかる苦難を恐れて死を考えなくなってくるのです。
  子供に対する母親の生きる意味は大きいですが、身障児の親子関係ではその意味がさらに大きく、深いものになります。

身障児の母親の持つ苦悩

  母親は子供の将来を考えます。しかし将来のことを考えようにも奇跡的な妙手や確実な生活保障を得る手掛かりはありません。今までの経験から身障児の母親が持つ苦悩を完全に解決する事は不可能だと母親自身が感じているのです。

  身障児の母親の苦悩は長い年月の経験から、この世の中の冷たい風が吹き、母の死後、我が子は生きていけるであろうかという焦りが痛ましい苦悩となって渦巻いているのです。

  この母親と同じ苦悩を持てば誰でも病気になってしまう事でしょう。それほどに我が子に障害児を持つ母親の精神的苦痛は大きいのです。しかし母親はこの苦悩のために病気なる暇もないのです。この苦悩がどのような意味を持つのかはその母親だけに分かるものなのかも知れません。

  身障児の母親が持つ苦悩は人間にとって計り知れない苦痛かもしれません。この母親の苦悩がどのような意味を持つのかは、なかなか一般人には理解できるものではないのです。

苦難の人生でも強く耐え忍んで生きていく母親

  いつの日か母親は絶望的な運命に対して謙虚に耐え忍ぶ事を学んでいきます。身障児を持つ母親はこの運命の不幸に直面しながらも生きる責任があることを強く認識しているからです。

  ロイヤルハウス石岡新館の入居者であり、身障児の母親だった小島ちよさんが我が子と過ごす一日一日はきっと幸せだったに違いありません。小島さんは「私は幸せだった」と何回も私に述べていました。小島さんにとって我が子の存在が愛の対象であり、光り輝く存在だったのです。

  身障児を持つ母親は独りで生きていけない我が子に限りない愛情を注ぎます。自分の子が世界で唯一意味のある存在だと感じているからです。
  母親はそのためにあらゆる事をします。最初は医学的な治療を求めて出来る限りの病院を歩き回ります。しかし治る見込みがないと分かると今まで以上にそのハンディキャップを背負って生きる我が子を懸命に自分の愛で包もうとします。
  変えることの出来ない運命の中で、苦難の人生を耐え忍んでいくのです。

絶望の中から強靭な愛が形成される

  身障児を持つ母親の基本姿勢はこの苦悩を克服する努力にこそあります。そしてやがて子供をめぐるこの苦悩は母親の愛で包む育児方法によって、苦悩から幸福へと変化していきます。

  最初のうちは「この子の人生に何を期待して生きようか」という姿勢ですが、やがて「自分はこの子の人生から何を期待されているか」という問いかけに変わってくるのです。
  そしてそれはやがて我が子を愛で包むことが母親に託された使命であるという認識に至るのです。

  「運命に対する嘆き」は通常の判断力や価値観を超えて、しだいに強靭な愛を形成していくのです。そしてこれが生きる意味を形成させているのです。

  何としても生きなければならない母親の嘆きの深さは、どんな犠牲を払っても愛の炎で我が子を包んで生きようという概念に変わります。母親の超人的な力強い行動が周囲の人々にひしひしと伝わってきます。これが絶望の中から生まれた現実的な愛の姿なのでしょう。

  苦悩、苦痛から生まれた愛。この愛の感覚が身障児との親子関係から生まれてくるのです。

障害児を受け入れてくれるロイヤルハウスへ入居

  小島さんは治る見込みのない我が子のために一生懸命働いてお金を貯めました。年老いた親の責任は子供がこの世の冷たい風が吹く中で、普通の子供と同じように安心した生活を求めて一生懸命働いてお金を貯めたのです。

  お金は貯まりました。誰に保護をお願いするか迷いました。老いていく自分自身が安心して障害を持つ子を託せる所はどこにあるのか一生懸命探しました。その結果、新聞広告で見たロイヤルハウス石岡に入居することがこの問題を解決する道だと決断したのです。

  入居してから小島さんは「ロイヤルハウス石岡は障害児を持つ人が排除されるようなホームではない」という事がはっきりと分かりました。この安心感が小島さんの生活を精神的に安定させました。

  ようやく老後の安らかな生活を過ごせる場を見つけたのです。しかし、もし私が死んだ後、障害を持った我が子はどうなるかと考えたときに再び不安は増幅していきました。

  自分の子に溢れるように愛情を注ぐ小島さんの姿は人間愛の本質的な美しさを見せてくれました。
  「どうか娘をお願いします」と小島さんは絶えずロイヤルハウスに訴えてきました。小島さんは「私の保証人になってくれる親戚の人はいるんですが、障害を持っている娘の保証人になってくれる人はいないのです。みんな障害児の保証人になる事は嫌なんでしょうね。私は私が死んだ後、娘がこの世でどのように生きていくか心配なのです。今後どのようになっていくか分からない身障児の保証人になってくれるのはロイヤルハウスしかいないんですよ。」とその耐えがたい悲しみを私に訴えてきました。

  これまで昼も夜も働き、願い続けてきた娘の幸せがなぜ実現しないのか、その苛立ちは時ともに増幅していきました。

障害児も安心して暮らしていける「生涯保障制度」

  そこでロイヤルハウス石岡が制度として、一定の責任を持って身障児の娘さんが安心して生きる道を保障する制度を作りました。これを「生涯保障制度」と言いますが、これは第三者の世話にならずに有料老人ホームで安心して生活できる制度なのです。さらに身障児の娘さんの保証人にはロイヤルハウスの園長がなるという道を付けました。

  小島さんは喜び、本当に感謝の気持ちを表明しました。小島さん本人にとっては我が子の生きる意味が感じられたのでしょう。このときから小島さんは落ち着いた生活をされるようになったのです。

娘さんの死で生きる意味を失った小島さん

  しかし身障児の娘さんが残念ながら突然亡くなられました。本当に突然でした。
  娘さんの死によって小島さんは「生きる意味」を喪失してしまいました。という事は小島さんにとって生きる事が何の意味もなくなったという事になったのです。
  小島さんは生きる目的を失い、生きていく意味が喪失し始めたのです。

  生きる意味を喪失し始めた頃、小島さんはロイヤルハウス石岡の共同浴場で湯上りの場で倒れました。
  倒れたとき、そこにいた入居者が声をかけましたが、そのときすでに反応はなくなり、右手が利かなくなったようです。小島さん自身は自分自身でタオルをかけようと必死で左手を動かそうとしましたが動きませんでした。

  ロイヤルハウスのケースワーカーの下河辺室長とヘルパーの田口チーフが付き添い、ストレッチャーに乗せ、すぐに石岡第一病院へ向かい、治療を行いました。

  そこですぐに脳梗塞の疑いがあることが分かりました。
  救急車で第一病院からすぐに石岡脳神経外科病院へ転送されました。
  脳梗塞と診断され、血液の一部が溜まった状況になり、脳が膨れているため、すぐに入院し、手術する事が決まりました。手術をした脳神経外科の医師の話では、「この1週間くらいが山だろう」ということでした。小島さんは手を強く握ると辛うじて反応することが出来ましたが、言葉は何も喋れませんでした。

小島さんを毎日お世話するヘルパーからの報告

  次の日、ロイヤルハウス石岡の田口ヘルパーチーフが小島さんをお世話するために病院を訪問しました。昨日と同様に右手は反応することなく、左手は軽く握り返してくる程度との報告でした。

  その後お見舞いや身の回りのお世話などに行って戻ってきたヘルパー達の報告では、小島さんはやはり声をかけても返事がほとんどなく、手だけが握り返されたというものでした。

  石岡脳神経外科ではCTスキャン、MRI、採血など脳の検査が行われました。しかし小島さんはICUのベッドにずっと横になっていたのでした。

  ロイヤルハウスの入居者で風呂場にいた方々は、「小島さんは私にもたれかかるように倒れてきたので私は必死で支えていました」と当時の様子を動揺しながら話しておられました。小島さんは多くの方から信頼され、頼りにされていたので、女性の入居者の中には心にぽっかり穴が開いたような不安な表情になっていました。そして小島さんが突然倒れた事によって多くの人が不安定な精神状態になったのでした。

  小島さんの状況をさらに良く聞くためにロイヤルハウス石岡の古渡ヘルパー係長が病院に出掛けて話を聞きました。それによると担当医は「手術後は大きな変化はありません」と命に別状はない事を知らせてくれました。

  その後、毎日着替えを持っていくヘルパーの報告では「左手は動いている。そして酸素マスクをして寝ているようだった」というものでした。そして主治医との話では「血圧が安定していないため、ベッド上でギャジアップするのが精一杯で、車椅子に移動する事はとても難しい。鼻からチューブを入れて送る酸素は2リットルから1リットルに減少しています」と報告がありました。

  小島さんをお世話するために病院へ毎日行くヘルパーから詳しい状況が毎日のように報告されました。
  フルフリン生理食塩水(抗生剤)や痙攣止めのグリマッケン、アミノフリート、さらに血圧の測定値、酸素量の変更などヘルパー達は小島さんの病状と治療方法を刻々と毎日報告し、同時にそれをパソコンに記録していきました。

  ロイヤルハウス石岡は老人ホームであり治療の場ではないので、症状を病院から聞き、介護介助するための準備と用意を正確に行ってきました。

家族のような感情が湧き上がるヘルパー達

  多くのヘルパー達は小島さんがいつも元気な姿で散歩し、みんなに声をかけてくれる姿から一変し、寝たきりになって意識を失って寝ている事にショックを受けていました。

  「いつも元気に小島さんのほうから挨拶してくれたり、声をかけていただいていたので、こちらの声がけに何の反応もなくなっている事は大変辛かった。でも私の手を握り返して下さったときにはとても嬉しくて涙が出そうになりました。早く意識が戻って、元気になって欲しいです」と塚本ヘルパーは声を詰まらせて病状の報告をしていました。

  その後退院してきた小島さんにバルーン装置や病院からの指示に基づく点滴や薬の注入など医療的処置をロイヤルハウスの金子ナースは毎日的確に行っていました。

  しかし脳神経外科病院から退院後、再び病状が悪化し、今度は石岡第一病院へ入院しました。

  長年ロイヤルハウス石岡で一緒に過ごしてきたヘルパー達にとって小島さんとの関係は肉親のように親しくなり、喜びも悲しみも共にしてきました。小島さんのヘルパー達との親密度は高く、家族のような感情が大きく湧き上がっていました。

これからも家族の代わりにお世話させて頂きます

  小島さんの詳しい病状や治療については毎日ヘルパーから報告があがってきており、それを今見返すと何ページにもわたっていますが、プライバシーの問題もあるので、その実情を詳しくお知らせできない事はとても残念です。
 小島さんの身元保証人は時々しか来園されないので、保証人の了承を得て、石岡第一病院の院長とのムンテラや医療的判断をほとんどロイヤルハウスのヘルパーが受けています。つまり小島さんの病状はロイヤルハウスのヘルパーが一番良く知っているのです。

  現在、小島さんは発病から10ヶ月経ちますが、第一病院から退院した後はほとんど変わらない状態が続いています。残念ながら著しい回復はありませんが、決して悪くはなっていません。
  それでも介護の度合いは次第に深くなっていきます。

  小島さんの保証人からは「なるべくお金をかけないで介護して欲しい」という強い要望がありますので、この点については病院にも理解して頂いて、入院よりもロイヤルハウスの居室でヘルパーが医師の指示を受けながら介護する事が多くなりました。

  身障児を持った母親であるが故にロイヤルハウスに入居した小島さんは、今こうしてロイヤルハウスの居室でヘルパー達に囲まれて手厚い介護を受けています。
  身障児だった娘さんより母親の小島さんのほうがロイヤルハウスで長い介護を受ける事になってしまったのは大変残念な事です。しかしロイヤルハウス石岡はこれからも小島さんの家族の代わりとなってお世話させて頂きます。

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涙が出るほど嬉しい感謝の気持ち

身障児の娘さんを亡くした母の嘆き

身障児の子を持つ母親の悩み

  身障児を持っている母親の最大の心配は、老いた親が亡くなり、残された我が子がどのような行く末をたどるかという事です。
  昔から病弱な子ほど母は強い愛情がわいてくるというのが本当の母親の愛の姿です。病弱な子を持つ母親は、強く生き抜いています。ですから、最愛の我が子が身障児であることで、もし母親が亡くなった時どのような生活が待ち受けているか、そのことを考えると、母親は不安におびえて心の動揺は隠せません。

突然起こった予期せぬ不幸

  ロイヤルハウス石岡に身障児と共に入居した小島ちよさんは、不幸にもお子さんが突然先に亡くなってしまい、残された小島さんは嘆き悲しみ、涙、涙の毎日でした。
  小島ちよさんは自分が死去した後、残された身障児の娘さんに対し、安心して娘さんの余生が過ごせるようにするためには、どうすれば良いのか一生懸命考えておられました。
  その結論として、ロイヤルハウスの生涯保障制度に娘を加入させることで、ロイヤルハウスの組織全体で娘さんの生涯が保障されるという結論に達しました。
  事実いままで、ロイヤルハウス石岡では生涯保障制度に何人かの方が加入しています。この制度は一時金を支払うことで、あとはわずかな遺族年金があれば自動的にロイヤルハウス石岡が生涯にわたって、生活を保障していくというシステムです。
  小島ちよさんは、母親として障害を持った娘のためにこの制度にどうしても加入したいという事をロイヤルハウスに申し込んでおられました。この生涯保障制度では、小島さんの場合、少し資金が不足していましたが、ロイヤルハウス側としては身障児の家族のために奉仕することは、十分意義のあることと考えてお引き受けすることになりました。
  しかし、残念ながら娘さんは突然亡くなられてしまい、残されたのは母親の小島ちよさん本人の方でした。
  ロイヤルハウス石岡では身障児の娘さんをあれほどかわいがっていた小島ちよさんが落胆のあまり、健康を害するのではないかと心配しておりました。その時、小島ちよさんは次のような手記をロイヤルハウスへお寄せ下さいました。

小島ちよさんの手記

  『私は、ロイヤルハウスへ入居して六年になります。
  障害者の娘と二人で入居させていただきました。娘と二人、毎日楽しく暮らしておりましたが、その娘が、去る八月十九日、突然死亡してしまいました。あまりに突然の死に、私はびっくりしてしまいました。
  ロイヤルへ入居してからは、娘と二人で過ごしておりましたが、あまりに突然の死に唯びっくりして、何が何だかわかりませんでした。娘は障害がありますので、時々私を困らせることがありましたが、日常はとても細かいところまで、私のことを心配して、毎日の薬も、前の日にちゃんと用意して、食堂へ持っていく袋の中へ入れてくれました。
  今思えば、娘の手伝ってくれたことが、どんなにか有難く思います。毎日のお掃除と洗濯は私がやるからと、私にやらせなかったのです。色々と、思い出はとても書ききれないほどありますが、思い出して書こうとすると涙が出てしまいます。
  私は、今の心境では、とてもまとまったことなど書けません。娘に毎日、陰膳を供えて、娘の写真と話しておりますので、思ったより寂しくなく過ごしております。
  これからは、私も年ですから、残りの人生を楽しくロイヤルの皆さんと仲良く過ごしていきたいと思っております。
  私が一人になっても寂しい思いをしなくて済むのは、ロイヤルの皆さんがとても良くしてくださっているからです。これは涙が出るほど嬉しいことです。』

 この手記で小島さんが気を取り直し、元気でお過ごし下さる事が出来るまで回復されたと感じて、ロイヤルハウス石岡のスタッフは大変安心しました。
 このように人生に重い荷を背負って生きておられる入居者には、“あたたかい手”を差しのべる事がこのホームの使命であると常々考えております。

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ホスピスを目指して

有料老人ホームの新しい活用法

  最近、長期療養のためのホスピスが求められるようになってきました。
  ホスピスが求められるようになった背景には、病院による介護よりもホスピスの介護のほうが人間的で、介護の質も良いということが分かってきたからです。
  病院における医療では、医学の研究や、治療の成果を求めることを専門としているのに対し、ホスピスでは患者主体の介護が行なわれるという点で、次第にホスピスの介護を求める人が多くなってきたのです。

延命治療は家族のエゴ

 原始的な医学では、疾病に対する単なる祈祷師の役割を果たすのが医者の役割でした。しかしヒポクラテスによって医学をより科学的に考えるようになり、物理学、化学、生物学などの発展により医学はサイエンスになりました。
  さらに細菌学、免疫学の発展、そして遺伝子学の発展によって医学そのものが大きく進化しました。人間の生命をサイエンスによって延ばすことができるようになったのです。そこで医学は人間の命を1分1秒でも延ばすことに専念してきました。

 心臓の動きを機械で代用し、肺機能を酸素マスクで補い、栄養不足を点滴で注入し、人間の最期はチューブに巻かれ、マカロニ症候群のようになって死亡するようになりました。

 この状況は、家族が少しでも長生きしてもらえれば、それが親孝行の証だと思うようになってきた結果であると思います。
  これは死に行く人の全人的な幸福、あるいは願いを叶えてあげていると言えるのでしょうか?むしろ社会で重要な役割を果たしてきた個人、あるいは家族の中で信頼をつなぎ止める役割を果たしてきた個人の最期の姿としては、余りにも惨めで、最低な状態で、苦痛の中で亡くなっていくことではないでしょうか。

 人間として素晴らしい人生を送ってきた人が、病院でマカロニ症候群になって生涯の最期を閉じたいと本当に念願しているでしょうか?
  これら全ては残された家族の方々のエゴの発揮の結果ではないでしょうか。

心は悲観と楽観が交錯

 ロイヤルハウス石岡では、入居されてから長生きされる方が多く、寝たきりのまま長期にわたりロイヤルハウスの介護を受けておられます。その方々の死に臨む姿は、その人の人生や人格に反映したものになってきます。
 ロイヤルハウス石岡に入居していた菅谷和夫先生は、死が刻々と訪れるときに、今を生きる意義を求める姿をロイヤルハウスの職員に見せてくださいました。

 菅谷先生は東大を卒業し、高校の英語の先生として前途洋々たる人生を歩んでいた矢先、突然不幸にも筋ジストロフィーに侵されたのでした。

 大正11年8月15日に板橋で生まれた菅谷先生は、昭和55年3月に57歳で高校の英語教師を退職しました。それは原因不明の熱が出て、教壇に立つことが苦しくなったからでした。
  菅谷先生は、立つことも困難になったので、東京医科歯科大の診断を受けると筋萎縮症と診断されました。
 不治の病であることが分かってから、菅谷先生はそれまで交際をしていた人間関係を閉じ始めました。多くの教え子とも音信不通にし、友人とも交際を避け始めました。しかし教え子から貰ったブロンズ像は自分の心の記念に大切に保存していました。

 プライドの高かった菅谷先生にとって、自分の肉体がこのような不治の難病におかされたのを知られたくなかったのでしょう。あるいは他人から同情されるのは哀れをもよおし、自分自身の人生を一層うら悲しいものにすると感じていたのかもしれません。
  一刻一刻死に向かっていく自分の肉体を見つめながら、菅谷先生はあるとき「なんで私がこんな人生を送らなければならないのかなあ・・・」と悲嘆にくれ、またあるときは「自分の人生は自分らしく生きる」と悲劇的な運命に立ち向かった古武士のように毅然と振る舞っておりました。心の中には悲観と楽観が絶えず交錯していました。

菅谷先生との最初の電話

  菅谷先生がロイヤルハウス石岡に入居してきたのは、板橋のアパートで一人暮らしを続けながら、新聞広告を見て、ロイヤルハウス石岡の資料を取り寄せたのがきっかけでした。色々なホームの資料を見てきた中で、何となく自分の一生を終身介護してくれるいいホームではないかと思い、直接ホームに電話をかけました。たまたま私自身が直接電話に出たのです。菅谷先生は、

「私は歩けないんですが、ロイヤルハウスに入れますか」
「大丈夫ですよ」
「実は私はアパートの2階に住んでいるのですが、下へ降りていけないのです。週2日来る家政婦さんに頼んで、手紙や新聞を取りに行ってもらってます。食事は店屋物を取るか家政婦さんにお惣菜を買ってきてもらって食べてます。だんだんそれもできなくなったので、ロイヤルハウスさんでは自分のような者でも入れるかどうかと思い、お聞きしているんですが」
「私のところのホームは、寝たきりの方も介護いたしますし、認知症の方も手厚く介護しております」
「では、私は見学に行けませんので、親戚の者をやりますから、見学させて下さい」
「いつでも結構ですよ」

 初めのうちは警戒しているような話し方でしたが、次第に打ち解け、自分の身体の様子を話し始めました。

 「私は歩けないので、四つんばいになって歩いています。幸い床の上では自分で座ることができますが、床を離れて自由に動くことはできないんですよ」
 「ロイヤルハウス本館は介護のホームですから大丈夫ですよ。食事は何を食べておられますか?」
  「ご飯を食べています。自分の歯もありますから、箸を使って食べられます」
  「大変立ち入ったことをお聞きしますが、用便はどうなさっているのですか?」
 「便器と尿瓶を使っています」
 「食事は自分でできますか」
 「私はいつも一人で食べています」
 「ご自分で下着などを着たり脱いだりなさるのですか」
 「介助してくれればできますが、一人ではちょっと大変です」
 「お風呂は一人で入れますか」
 「残念ながら風呂はとても一人では入れません」
 「ホームを見学なさいますか」
 「私は行けないので、親戚の者をやります」
 「分かりました。ご親戚の方が来られたらホームをご案内いたしますから、ホーム様子はその方からお聞きください。これから少しずつ寒くなりますから、お体を大切にして下さい。風邪など引かないように気をつけてください」

 こうして私と電話で話した後、菅谷先生はロイヤルハウスへ入居なさいました。

 菅谷先生が来られたとき、その身体の動かし方を見て、週2日だけ来る家政婦さんでは、ご自分の日常生活ができないのではないかと感じました。
  菅谷先生は、たまたま「終身介護」というロイヤルの新聞広告を見て、ロイヤルがいいかなと思い、資料を取り寄せたのです。初めは用心深く、色々ホームを検討なさったそうです。そしてロイヤルハウスが一番良いホームだという結論を出して、入居を決めたのです。

菅谷先生の少年時代のノスタルジア

 菅谷先生は栃木県の資産家の生まれで、小さいときは茨城県の大洗に別荘があり、夏は良く大洗で海水浴を楽しんだそうです。このことを菅谷先生自身は一切口にしませんでしたが、親戚の方が遺体を引き取りに来たとき、昔の菅谷先生について「小さいときからあまり体が丈夫でなかったので、親父が大洗に別荘を作ったのです」とおっしゃったことから分かりました。それまで親戚の方はほとんどお見舞いに来ませんでした。恐らく親戚とも親しい交際を絶っていたのだと思います。ですから菅谷先生はロイヤルハウスでヘルパーたちと一緒に大洗へ遊びに行くときは、いつも目を輝かせていました。きっと小さいときの深い思い出が大洗には数多くあるのでしょう。

 体の弱かった菅谷先生にとって大洗は特別な海だったのです。大洗は波の荒い海岸です。岩に砕ける波の音やしぶきは菅谷先生の思い出をかきたてました。
 「大洗は風があるときがいい」とぽつんと漏らしました。
 「風の日は寒いわ」というヘルパーに、目をつぶった菅谷先生が「いやー、波の音が素晴らしい。いいなあー」と、遠い一点を思い返すようにつぶやきました。

 菅谷先生にとって最後になった大洗のドライブは、菅谷先生のたっての希望で行なわれたのです。
 その日は風の強い日でした。大洗の波しぶきは岩にあたり、白い波が高く舞っていました。菅谷先生はその力強い波の音を、目を閉じながらじっと聞いていました。もはや自分で自分の体を動かせなくなっていました。ストレッチャーの上に横になりながら、波が岩に当たる震動を感じているかのように、全身で波の動きをとらえようとしていました。

 少年時代、恐らくお父さん、お母さんと一緒に歩いたこの大洗海岸の思い出が蘇ってきたのでしょう。遠い彼方を見るように、遠い昔を思い出すように、菅谷先生は一言もしゃべらず、身を動かさず、一心に波の音だけを聞いていました。
  大洗の岩に波が当たり、波が飛び散るときの明るい音と、波打ち際で崩れ落ちるときの音が交錯して出す、大洗の独特の波の音は、菅谷先生が昔、少年時代に遊んだときの波の音と同じだったはずですから、大洗の波の音は菅谷先生にとって少年時代の大切なノスタルジアだったのです。だからこそ「もう一度、風の日に大洗に行きたい」と強く希望したのです。
  波の音とともに菅谷先生が最後に言った一言、「ああ、これで最後だなあ」と感慨深げにつぶやきました。ヘルパーも誰もが黙っていました。

刻々と迫る死の意識

  このとき菅谷先生は寝返りも自分でできなくなり、また食事さえも自分で出来ず、介助を必要としていました。菅谷先生自身も刻々と迫る死を意識していました。病院の入院を医師から勧められても「優しいヘルパーさんに介護してもらいたい」と言って入院を固く辞退していました。また「毎日一緒にいるヘルパーさんのそばで、居室で死にたい。病院で死ぬのはいやだ」とロイヤルハウスで死ぬことを強く希望していました。
  医師は菅谷先生の希望に応じて病院に入院させずに、ロイヤルハウスで往診し、治療を施すことにしました。
  しかし十分な治療方法はありません。医師は「菅谷先生は自分の運命を十分覚悟しているね」と、その悟りの心境に心打たれたようにつぶやきました。
  死は確実に菅谷先生に迫っていました。それを菅谷先生は自らの天命と覚悟し、一言も悲観的なことを言わず、毅然とした態度で日々を過ごしておりました。

  菅谷先生はナースコールを押すことによって、自分が“生きている”ということを実感し、確認したいために絶えずナースコールを押してヘルパーを呼んでいました。
  最後の2ヶ月はヘルパーがほとんど付っきりになっていました。ヘルパーも次第に疲れてきました。しかし入居し始めたころは心を誰にも開かなかった菅谷先生も、ヘルパーには次第に心を開いてきました。
 この時、菅谷先生は天国へ旅立つとき、たった一人で孤独な姿で死にたくないという強い願望が芽生えてきたのだと思います。
  「少しでもいいから一緒にいて欲しいな。こんなに力がなくなってしまった。もう終わりだなあ・・・」と独り言のようにつぶやく菅谷先生にヘルパーは「大丈夫ですよ。大丈夫ですよ」と一生懸命慰めました。しかし菅谷先生は自分の運命を知っていました。
  体に倦怠感と麻痺が襲うと、菅谷先生は「死にたいなあ」「少し一緒にいてくれる?」「もう少しでいいから」とヘルパーにしばしば漏らすようになりました。これは1日1日と動かなくなっていく自分の肉体を自覚しながら、自分の心の願望と悲痛な叫びをあげて訴えていたのです。
  「体が痛いんだ。寝返りもできなくなった。悔しいんだよ」と何度もつぶやきました。
  「今度は少し反対を向きましょうね」とヘルパーが言うと、「楽になるかな」と静かにつぶやきました。「大丈夫ですよ。やってみましょう」、ヘルパーは何とか菅谷先生の心を慰めようと一生懸命でした。

 菅谷先生はヘルパーと、自分の身体のことについては良くしゃべりましたが、自分の家族については一切口を閉ざしていました。ですから全くといってよいほど友人も親戚もお見舞いに来ませんでした。恐らく菅谷先生は親戚の方々と交流することを何らかの理由で嫌がっていたのでしょう。
  ロイヤルハウスでは菅谷先生の容体をどのように親族へ報告して、理解を得ればよいか分からなくなりました。
  菅谷先生は天涯孤独のような生活をしていました。またそれを菅谷先生は望んでいたのです。

お金があっても癒されない、心の寂しさ

 菅谷先生は株をやっていたらしく、入居当時は「証券会社に電話をかけたいので、つないでくれ」と言って、証券会社や銀行に電話をしていました。不治の難病にかかったことが分かってから、菅谷先生はお金がこれから大切になると感じていたのでしょう。良くテレビで証券市場を見たり、ラジオの市況を聞いていました。しかし体が悪化し、寝たきりになると「ああ、お金があってもどうにもならないなあ」とつぶやきました。これはお金を使えなくなった時の菅谷先生の切実な言葉だったのです。
  「人生はお金ではないね」とヘルパーに相づちを打ってもらいたいかのように話し掛けました。お金ではどうにもならない自分の人生について、苦しそうに漏らし始めたのです。ですから「君たちは幾らもらっているの」とか「どのぐらいのお金が深夜まで働いてもらえるのかね」と話し掛けてきました。そして「お金があってもダメだ。私の預金は全てこのホームに寄付するよ。上の人に伝えて欲しい」と言い始めました。「私の死後、返還金が発生すると思うが、返還金はロイヤルハウスの皆さんに寄付したい。園長によろしく伝えてください。預金は7〜800万円あると思うが、それは甥に渡して欲しい」と伝えてきました。この事を心配して、館長にもケースワーカーにも同じ事を何度もお話しされていました。

 しかし、この時の菅谷先生の身体は動かなくなり、自分の名前さえ書けないほど衰弱していました。菅谷先生は筋ジストロフィーに冒されている身体を守るには、お金が大事であるということも良く知っていました。ですから最初はお金に執着していました。しかしお金だけで心の寂しさを解決できないことが分かってきました。そうすると心の解決を求めて、親しくなったヘルパーと一緒にいる事によって心が癒される事が分かってきたのです。
  菅谷先生は最後まで頭はしっかりしていました。「こんな体で金を持っていてもダメだな。情けないな」と自分の肉体が次第に動かなくなっていくことに対する苛立ちを見せていました。

  そしてやがて自分でナースコールさえも押せなくなった菅谷先生に対してヘルパーたちは30分おきに24時間体制で見て回り、水を飲ませたり、体位交換したりしました。菅谷先生は死に直面して、ヘルパーが一緒にいてくれることを強く懇願していました。
  「ただ何もしないで一緒に居て下さい」と菅谷先生がヘルパーに懇願する事は何を意味するのでしょうか?

  人間が寝たきりになって横たわり、特に治療方法もない時、ロイヤルハウスのヘルパーの役割としては、入居者が希望する事、つまり一緒に居て、時を過ごすことだけが最も重要な役割になってきました。しかしこれは死に行く人にとって大切な行為なのです。なぜなら病気や老衰によって動けなくなり、極限の状態になった時に一番辛いのは“孤独”であるからです。

死を迎える時、人は誰も孤独を感じる

 30年間、原因不明の病と闘い、心の旅路を続けている女性生命科学者、柳澤桂子さんは死に行く人の孤独についてこう述べています。

 「30年間も近い歳月を原因の分からない病気と共に生きてきて、社会に役立てない者になって自分の老いを見つめ、果てることは大変辛いことであり、そこで味わう孤独は言い知れぬものがあるのではなかろうか。しかし全ての人間は癒される可能性を持っていると私は確信している」

 では柳澤さんの言う「人間の癒し」とは何なのでしょうか?柳澤さんは次のようにおっしゃっています。

 「おなじ無力な人間となって、人間の限界に涙するときに、両方の心のなかに通い合うものがあるはずである。そのときはじめて、苦しむひと、死に向かうひとの孤独を癒す力が与えられる。
 宇宙の底になすすべもなく震え合う二人の人間。二人の間に流れる共感こそが宇宙に帰ろうとしているひとの恐れと寂しさを慰めてくれる。人間は生まれながらにして社会性をもち、社会性をはぐくみながら生きている。この世に別れを告げるときの究極の社会性は、みずからの貧しさを知った謙虚なひとによってのみ満たされるものであると私は考えている。

 もっとも悲惨なことは、飢餓でも病気でもない。自分が誰からもかえりみられないと感じることです。

 これはマザー・テレサの言葉である。極限の状態にあって、なおかつ一番つらいのは孤独なのである。」

 柳澤桂子さんは“一番つらいのは孤独である・・・言葉さえ必要でない・・・ひとの存在そのものが救いとなる・・・”と親しい人と一緒に居る時の重要性を述べています。

 同じように菅谷先生が“ただ一緒に居てください”とヘルパーに懇願する意味は、天空に旅立っていく人間が究極に求めるものでしょう。
  「もう何もしなくていいよ」「あと2、3日で面倒をかけることも終わりだから我慢してね」とヘルパーに言うと、菅谷先生はほとんどしゃべらなくなりました。
 死に臨んで菅谷先生は「黙ってそこにいてください」と交代するヘルパーに懇願しました。ヘルパーは黙って背中をさすったり、足をもんだりしていました。気持ちよさそうにしていた菅谷先生は「もう何もしなくていいんだよ」とささやいたのでした。親しく心を開いた、温かいヘルパーと一緒にいる事によって、菅谷先生は一番辛い死の孤独から癒されていたのです。

 死を前にしてしゃべりたいことはいっぱいあったはずですが、家族や教え子のことは一切しゃべりませんでした。しかし天国へ旅立つ前に菅谷先生が常に「そばに居て欲しい」とヘルパーに懇願する意味は、心を開いたヘルパーに手を強く握ってもらいながら、死を迎えたら幸せだなあと感じていたからに違いありません。

第二の人生をロイヤルハウスで

 過去の全ての人間関係を清算していた菅谷先生はロイヤルハウスに入居してからはナースやヘルパーとの関係が唯一の人間関係になりました。菅谷先生にとって第二の人生をロイヤルハウスのスタッフと共に過ごしたと言ってよいでしょう。今思えば、もう少し元気なときにロイヤルハウスに入られ、同じように介護を受けている人たちと交流を持っていたらと思うばかりです。

 もっと幸せになるためには、もっと早くから入居して、ヘルパーやケースワーカー、そして看護士にも心を開いた人間関係を作るべきだったと思わずにはいられません。
  ロイヤルハウスでは車椅子でロビーに出れば、多くの仲間がいます。そこで少しでも交流があれば、最後の時に多くの人が見舞ってくれ、心の交流ができて、温かい第二の人生をより深く感じる事ができたのではないでしょうか。
  過去と断絶して生きるにしても、新しい未来がこのロイヤルハウスで開けたのに、どうして早く入居されなかったのか悔やまれます。そう思うとこれが菅谷先生の天命だったのでしょう。

「ありがとう。黙って一緒にいて欲しい」

 死に向かって超然と立ち向かう菅谷先生の姿は古武士のように輝いていました。そしてその姿でホームの看護婦やヘルパーに会い、医師には自分の意志をはっきり表明していました。
  亡くなる1日前に菅谷先生は「どうしても風呂に入りたい」と突然言い出しました。体力を消耗する入浴は重度の患者にはよくありません。しかし菅谷先生は「どうしても入浴したい」と言ってききませんでした。
 おそらく“美しく死にたい”という菅谷先生流の美学があったのでしょう。入浴して綺麗になった菅谷先生は「ああ、良かった良かった」と感慨深げにつぶやきました。そして次の日、ヘルパーに向かって「ありがとう。黙って一緒にいて欲しい」と言ったまま深い永遠の眠りにつきました。
  菅谷先生の死に顔は古武士のようにきりっとしていました。そして自ら清潔な肉体になって天国へ旅立っていったのです。

  菅谷先生の超然とした死は光に包まれて生命が高揚していくようにまぶしく感じられました。菅谷先生は恐らくロイヤルハウスで生活した第二の人生に心を開き、ヘルパーとの交流に満足しながら天国へ旅立ったと思います。

 菅谷先生のロイヤルハウスの生活は食事には栄養士がつき、看護には看護士がつき、介護にはヘルパーがつき、日常生活を高い水準の介護で過ごしていました。菅谷先生の生き方は決して惨めではありませんでした。
 菅谷先生の心を救うため、独りぼっちにしないためにヘルパーは絶えず一緒にいてあげました。何故ならばこれが死に行く人間にとって誰もが望むことだからです。そしてこれは「終身介護」を目標にし、老後を安心して暮らせることを目標にしているロイヤルハウス石岡でも大切な事なのです。

介護と死の看取りの社会化が必要

 柳澤桂子さんは30年間も病と闘い、介護を受けながら生命を維持しました。また生命科学者として“老化と介護”の問題を次のように述べています。

「たとえ温かい家庭があっても、ひとりの病人を長期に抱えるということは、家庭に大きな犠牲を強いることになる。自分のために家族が苦しい思いをするのをなす術もなく見守らなければならない辛さは、病気そのものの苦しみより耐えがたいこともあるであろう。
  介護しているひとが病気になったり、家庭のなかに思わぬできごとが起こることもある。とくに老人を介護する女性たちの多くは、そのたいへんさを「自分が先に逝くのではないかと思ったという。
  事実私の知っている何人かの女性が、老人の死を看取ったあと、間もなく亡くなっている。ひとりの人間の最期を看取るということは、それほど消耗する仕事なのである。」

 このように家庭における家族介護の大変さと困難さを科学者らしい合理的な目で人間の肉体の老化に伴なう社会的困難さについて述べられている。これは家族でも老人ホームでも同じ事なのです。

 さらに柳澤さんは、終末期のガン医療患者だけしか受け入れられないホスピスでなく、どのような病気であっても心安らかに療養でき、温かく看取られるホスピスが欲しいと次のように訴えています。

 「自分がここで最期を迎えたいと思うような施設を地域ごとにつくり、住民がそこで介護にたずさわることによって、介護と死の看取りは社会化されるであろう。社会として、高齢者や長期療養者を介護していくことによって、自分がこれから歩むであろう道を知ることができる。また、死から目をそらして恐れるのではなく、死にゆくひとびとに温かく接することによって、介護するひとも多くを学ぶことであろう。
 在宅かホスピスか、その選択ができてはじめて豊かな社会ということができよう。介護と死の看取りがもっともっと社会化されることを願ってやまない。」

 このように、どのような病気であっても心安らかに療養でき、温かく看取られるホスピスの設置を熱望されています。

ホスピスで癒しの介護を求める

 この事がアメリカやイギリスでホスピスの果たす役割の最も重要な事と認識されるようになったのです。ロイヤルハウスでは死にゆく時に、親しいヘルパーが手を握ってあげて、入居者の方を自然に癒せるようにしています。ロイヤルハウスでは死の主役はホームの入居者自身である事を当然のように受け入れているのです。そういう意味ではロイヤルハウスの介護のシステムは入居者にとってホスピスそのものと言って良いと思っています。

 入居者とその家族とが何を望んでいるか心を砕きながらロイヤルハウスの運営を行なっているのです。
 欧米のホスピスでも患者の最後のQOL(生活の質)が最大の課題になっています。欧米のホスピスで必要なことは、

  1. 一人ぼっちで死なせない
  2. 痛みに耐えなければならないことはさせない
  3. 主役は患者自身で自分の希望する場所で希望するように最後の時を過ごさせるようにする
  4. 心を許せる人に満足しながら“さよなら”を言う事ができる環境を作る

  以上4点であるといわれています。
 これら全てにおいてロイヤルハウス石岡は十分に配慮して介護を行なってきました。
 つまりロイヤルハウスは入居者が最も望むことを実現すべく、心を砕くことによってホスピス的役割を果たしてきたと言っていいかもしれません。

 「死ぬ瞬間」の著者ロス博士は「死は敵ではありません。一人ぼっちこそ敵です」「私たちはみな死ぬのです。私もあなたもその準備をしなければ死は痛みと怒りと悲しみばかりになります」と死ぬ場所の選び方と、人生の最後に心を開いて語り合える死の環境を作ることが大切であると提案しています。

 ロイヤルハウス石岡では伝染性の病気でない限り、どのような状況の患者の方も受け入れて、癒しの介護を行なっています。

死後も含めて老後を考える事が必要

 ロイヤルハウス石岡では多くの入居者が長生きされるため、身元保証人の方が先に亡くなられ、保証人がいなくなるケースも多くなってきています。
  「身元保証人」を引き受けるということは大変なことで、寝たきりになったお年寄りの身元保証人を引き受けることを拒否される親戚の方も多くおられます。

 しかし残されたお年寄りとロイヤルハウスという施設は、そのまま介護を続け、亡くなられたら葬儀を行い、ロイヤルハウスの共同墓地で永代供養を行ないます。
  こうして入居した後、身寄りがなくなってもロイヤルハウスでは最期までお世話させて頂いております。

 もっと大変なのは、入居したお年寄りで孤独に亡くなられた後、今まで一度も現れたことがなかった親族が現れて、「親戚だ」と称してロイヤルハウスの生活や死んだときの様子などをお聞きになります。そして最後に「財産はどうなったのですか?」とお聞きになります。親戚だといっても全く見ず知らずの方のこのような電話による連絡はかなり多くなってきています。
  そしてそのような親戚を称される方は誰もが一様に「生前お会いしたときは国に財産を寄付すると言っていたが、どうなったか?」と聞いてきます。このような方は「国に遺産を相続させる」という合言葉で、老人ホームで亡くなられる方の財産を次々と探し回っているのかもしれません。

多くのお年寄りは、老後のことは単に有料老人ホームで安心して余生を過ごし、幸福な一生で終わりたいと希望する方が多いのですが、実際には自分の死後のことも十分に考えて余生を送らねばならない社会になったようです。「死に方」を相手に任すのではなく、自らもその行末を十分に考えて、必要のある方には知らせておく事が必要です。

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ご入居者、ご家族からのお便り

ロイヤルハウス石岡での日々

視覚障害という入居時の不安は一新

―ロイヤルハウス石岡新館―
ご入居者 菊池 淳・綾子様 

視覚障害があっても入居可能!!

 私ども夫婦は、平成12年11月、此のロイヤルハウス石岡新館に入居させて頂きました。
 私自身中途失明の障害者でありますので、果たして受け入れて頂けるだろうかと、些か不安でした。
 電話にて資料送付のお願いと、視覚障害者の受け入れ等を、伺うと「大丈夫ですよ。そういう方もいらっしゃいます。」との言葉に安堵したことは、今でも忘れる事が出来ません。

 県内在住でもありましたので次の日、入居相談室の職員の方が、資料を持参、訪ねて下さり詳しくお話を聞くことが出来ました。
 子供のなかった私どもでしたので、予てから二人で一緒に入れる老人施設を、終の住処と考えており検討中でした。
 その中の1箇所が、此のロイヤルハウスでした。丁度、常磐線沿線に三人の弟姉が居を定めておりましたので、何かと便利だと思い、私どもには、過ぎた施設でしたが、躊躇することなく決めました。

五十人程の穏やかな暮らし

 入居に際しましては、不安がありましたが、心優しく導いて下さる職員の皆さんを始め、入居者の方達に迎えられ、慣れるまでには、さほど時間はかかりませんでした。
  何より、心配していたことは、皆さんと上手にお付き合いしていけるだろうかという事でしたが、皆さん良識のある方達ばかりで、周りの人間関係もうまくいっているようで、安心してホームの生活に溶け込むことが出来ました。
  住宅地の中にあります、二階建てのマンション形式のホームには、五十人程という家族的な雰囲気の丁度良い人数で、穏やかな暮らしをしております。
  レストランでの食事時には、色々な話題に花が咲くこともあり、楽しい一時でもあります。

和やかな雰囲気のサークル活動

 サークル活動と致しましては、書道、陶芸、手工業、太極拳、茶道、歌う会、ゲートボール等、それぞれに活動を続けております。前からやられていた方は、新しく始めた方達に親切に教えてあげたり、出来ない方達には、お手伝いをして差し上げたりしております。また、お茶タイムが楽しみという和やかな雰囲気でやっているようです。
  文化祭には、一年間の成果の発表の場でもあり、すばらしい作品が沢山出品されます。
  陶芸などは、茨城県高齢者美術展に毎回入選している方もおられます。
  また、月に一度の外出行事や、外食会に参加し、お互いの交流を深めております。
  私の出来ることと云えば、月二回の歌う会に参加し、孫のようなボランティアで来て下さっている女子大生のピアノ伴奏で、悪声ながら、皆さんと一緒に声を出して楽しむことです。

四季折々の花の薫りが漂う散歩道

  お陰様で二人ともこれといった病気もありませんので、まず健康を第一に考え、朝のラジオ体操は欠かすことなく参加し、三十分程度ですが、出来る限り妻と散歩を続け、足腰を鍛えております。
  最近は、近所の方達とも顔見知りになり、「お二人揃ってうらやましいですね。」「頑張ってますね。」など声をかけてくれ、励まして下さるようになりました。
  ロイヤルの庭はもとより、何処の住宅の庭にも、花木が植えてあり、四季折々の花の薫りが漂う楽しい散歩道になっております。

 「夫つれし 今朝は濃霧の 散歩道」

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